歴史の雑学

現代でも根強い人気を持ち日本人の人情にピッタリと来る時代劇と言えば何と言っても「忠臣蔵」です。 テレビドラマや映画数多くの芝居などで、赤穂浪士達は討ち入りの当日、本所の吉良邸の帰宅のそば屋の二階に集合したことが定説になっています。 その理由としては。「討ち入りは集合から3時間後であるから、消化のよい食べ物出なければならない。その点そばは消化が早く、すぐ力になる」 体とされています。ある学者は現代の栄養学的な見地から言っても理にかなっていると感心していますが、まさか栄養学の見地からそば屋に 集合したということはかんがえられないでしょう。 もっともな理由としては、そば屋は当時の江戸で最も夜遅くまで営業していたから、吉良邸の近所のそば屋をオルグにしていたか、同志らと話し合って そば屋をアジトにしていた説が有力です。 そのほかには、同志の家に集合して夜食としてそばをたべたのではないかという説もあります。
1941年12月7日(アメリカ時間)の真珠湾攻撃は太平洋戦争の引き金となりましたが、ニイタカヤマノボレはその時の暗号文としてよく知られて います。この奇襲作戦は見事に成功し、4年間にわたる太平洋戦争へとなだれ込んでいきました。 しかし、アメリカ側は日本軍の暗号文を傍受していたというのです。この暗号文が奇襲攻撃を意味することをルーズベルト大統領も知っていたという のです。 なら何故に真珠湾攻撃を防御出来なかったのでしょうか? はじめの暗号文を傍受した後ワシントン標準時観の午前4時37分に別の暗号文も傍受され解読されていたのですが、なぜだか、この暗号文は3 時間もの間暗号質におかれたままになっていたというのです。 それから大統領に届けられ午前11時直前に陸軍の首脳達に、暗号文内容が知らされたといいます。ジョージ・マーシャル元帥が、軍の無線で 太平洋の各基地へ警告を発したのはその後です。 しかしながらハワイにだけこの警告が伝わらなかったといいます。驚くことに、無線係が眠り込んでしまっていたというのです。 そこで、マーシャル元帥の部下は、商業用の電信を送りました。その電信が3時間後にようやく到着したときには日本軍の真珠湾攻撃は完了した 後であったそうです。 このように真珠湾攻撃は数々の偶然が重なって成功したようなのです。もし3時間も暗号文が忘れられていなかったら、もしハワイの無線係が 眠っていなかったらひょっとしてあれほど悲惨な戦争には発展しなかったかもしれません。 なお、ニイタカヤマノボレのニイタカヤマ(新高山)は、台湾の玉山の旧日本名です。
ちょんまげも滑稽ですが、月代と言われる青々とそってある部分は本当に異様です。 あんな珍妙な髪形が何故に流行ったのでしょうか? 武士は戦闘集団であり、戦が始まれば鎧兜に身を固めて出陣しなければなりません。 しかし、兜は重く、風通しが悪くて頭が群れてきます。それを防止するために頭部をそったという説と、激しい戦闘でも兜が動かないようにすわりを 良くするために月代にしたという2つの説があります。 はじめは武士だけの髪型だったのですが、格好良く見えたのでしょうか、町人もまねするようになっていったそうです。 現代でもタレントの髪型を若者が真似するのと同じです。日本人の心理はあまり変わってないようです。
現在は誰もが海外留学できる時代です。女性の留学生も急増していますが、草分けとなった女性たちの苦労は測り知れません。 日本の女性の海外留学は大化の改新の以前にまでさかのぼります。その第一号は善信尼といわれています。 西暦588年に4月、蘇我馬子の後援を受け百済の使者恩率首信らに従って海を渡りました。そして、2年後に帰国。河内の桜井寺に住み、多くの 女性の指導にあたったといいます。こんな昔に留学を目的として果敢にも海外に出かけた女性がいたのですね。自分も初めて知りました。 近代では、明治4年11月12日、岩倉具視大使一向の欧米諸国歴訪の船に同乗し。横浜港からアメリカに渡った少女たちがいます。 「北海道の開拓には特に良妻賢母が必要である」という黒田清隆の意向で5人を選び留学させたのです。 その5人は、のちに津田英語塾を創立して我が国の女子教育に貢献した津田梅子(渡航時8歳)、瓜生海軍大将夫人となった永井繁子(同11歳) 大山元帥夫人となった山川捨松(同12歳)、それに吉益亮子(同16歳)、上田悌子(同16歳)でありました。 皇后陛下からは励ましの言葉と緋ぢりめん、茶菓子が送られたそうです。 吉益・上田の2人は病気のため明治5年に帰国しましたが、後の3人はその後約10年間勉強を続け明治13年に帰国しました。 現代とは比べ物にならないほどのカルチャーショックを受けながら耐えて耐えて長期留学を続けたその勇気には感嘆させられます。