有名人の雑学

豪華客船のタイタニック号の悲劇はよく知られています。「レイズ・ザ・タイタニック」や「銀河鉄道の旅」などの小説や映画のモデルにもなりました。 実は、驚くことに、この事故の起こる20年以上も前にこのタイタニック号の沈没を予言するかのような小説が発表されていたのです。 「1888年4月、イギリスの港サザンプトンから処女航海に出た世界最大の”タイトン号”は大西洋を航海中に氷山にぶつかって沈み、多くの乗員が 命を失った」となっている。 1912年3月、この小説が発表された24年後ですが。世界最大の豪華客船タイタニック号がイギリスで建造されました。同年4月10日、各国の 符号達を乗せ総乗員数2208人でタイタニック号はニューヨークに向けて処女航海に出ました。 華麗に出帆したタイタニック号でしたが、北大西洋にあるカナダ沖に差し掛かった時巨大な氷山にぶつかってしまって、沈没してしまいました。 救助された人はわずか695名だったそうです。 この事実はかなり小説と似ていて、処女航海であったこと、遭難事故にあった月、船名が似ていることなどかなり多く当てはまります。 また、タイタニック号は23ノットで氷山に激突しましたが、タイトン号の速度も25ノットだったといいます。 この小説の作者は「タイトン号の悲劇」1作のみを残してお亡くなりになったそうです。まさにタイタニック号の沈没を予言するために小説を書いた かのようですね。
芥川賞は文学界にある40以上もの賞の中でその歴史的な重みで大きな権威を持っている賞です。 受賞者の社会的な評価の保障や文壇への登竜門であるという意味で他の賞を圧倒しています。 さて、第一回受賞者は石川達三でしたがこの時候補にあがたのがあの太宰治です。 太宰は当時26歳で3月に東京帝大は落第し、都新聞の入社試験は失敗し、失意のうちに鎌倉で2度目の自殺未遂、さらには盲腸炎で入院し、 おまけに鎮痛のためのバナビールの中毒になるなどどん底の生活にあえいでいたそうです。 そんな状態だったので芥川賞をもらえればこのどん底から這いあがれると思い選考委員の一人である佐藤春夫に泣きついたのです。 まず佐藤に哀願の手紙を出したそうです。その内容はというと。「私は優れた作品を書きました。これからもっともっと優れた小説を書くことが出来 ます。(略)芥川賞をもらへば、私は人の情けに泣くでせう。そして、どんな苦しみとも戦って、生きていけます。元気が出ます。(略)お伺ひしたはう がよいでせうか。何日何時に来いとおっしゃれば、大雪でも大雨でも、飛んでまゐります。」 太宰はこの手紙のとおりに佐藤宅に出向き応接間の床に頭をこすりつけて、泣きながら「芥川賞を下さい」と絶叫したといいます。 しかし、かいもなく、太宰は次点になりますが、佐藤の推挙とこの賞の権威により、これ以後作品を次々と発表し、新進作家としてかつやくしていきました。
夏目漱石の「坊ちゃん」というと、山嵐、野だいこ、赤シャツ、といったあだ名をもった登場人物を思い出します。 この登場人物の中のきざな赤シャツ教頭が着ていた赤シャツとはどんなシャツだったのでしょうか? テレビドラマ化された「坊ちゃん」の中では、赤い上着にズボンというハイカラな洋服姿の赤シャツが出ていましたが、はたしてそのとおりだったので しょうか? 原文にはこうあります。「当人の説明では赤は体に薬になるから、衛生のために、わざわざ誂へるんだそうだ。」と。さらに「そんならついでに着物 も袴も赤にすればいい。」とあります。 このことから、赤シャツは着物を着ていたということになります。赤シャツとは着物の下に着ているフランネルの赤い肌着のことだったのです。 フランネルは和服の下に来る襦袢、寝間着、単衣、肌着などに仕立てられることが多かったのです。 このように「坊ちゃん」のには赤シャツが洋服を着ていたとはどこにも書いてないのです。
大音楽家ベートーベン、知らない人はいないでしょう。このベートーベンは耳が聞こえなくなったり、生涯結婚しなかったりと、暗いイメージが強いの ですが。そのくらい人生は子供の頃にすでに決まっていたようなものでした。 最初にベートーベンに音楽を教えたのは父親だったといいますが、この父親がとんだ食わせ物だったそうです。「息子にバイオリンを習わせて、街の 音楽士にして稼がせたら自分は遊んでくらせるだろう」こう考えた父親は息子を鞭打ちながらバイオリンの練習をさせたといいます。 ところがどっこい、ベートーベンはたちまち音楽で父親を抜かしてしまったそうです。そこで父親は街の音楽士に息子のけいこを頼んだが、この音楽 士がまた父親に輪をかけたとんでもないぐうたら人間で、しかも大酒のみだったのです。その音楽士は酔っ払っては夜中にベートーベンを叩き起こし 朝まで稽古をつけるというひどいありさまだったそうです。   こんな悲惨な幼少時代を過ごしたベートーベンは28歳の頃から耳に異常をきたし、次第に聴力を失っていきました。しかし、この致命的ともいえる ハンディを背負いながらも「第9交響曲」をはじめとする素晴らしい作品を生み出しました。 何故耳が聞こえなくても作曲出来たかというと、楽器などの音に頼らなくても楽譜の音が聞こえたからだそうです。何ともすごいですね。しかし、音が  聞こえないので指揮をする時はやはり動作は乱れ楽団員は彼の指揮棒を見ず第1バイオリニストに合わせて演奏したそうです。 また、耳が聞こえなくなった原因としてはチフス説、梅毒説などがありますが定かではないそうです。